オレは氷。
さとりとは、氷が溶けること。
引用です。
今日は、「さとり」の話。
時々、「さとった○○さんは・・・」というような言い方をする人がいます。
そのたびに、そうじゃないんだよなあって思うのですが、いちいちこだわって解説するのもキリがないので、大抵はそのままにしています。
たぶん、「私はさとっている」なんて公言する人はいないと思います。
いるとしたら、何かの説明上そのような比喩を使うか、あるいはその人自身が完全にパラノイヤにあるかです。
ちょっと整理してみます。
まず、真実の立場から言えば、さとりなどありませんし、さとった人もいません。
同じような類の言葉を聞いたことがあるんじゃないですか?
「さとりもなければ、さとった者もいない」
どういう意味か分かりますか?
この言葉は真実の立場からのものです。
真実の立場とは、自我の分離幻想が消えた立場のことです。
もともと真実はそのようにして在るので、さとりもへったくりもありません。
さとりとは、幻想側から見た幻想が消えた状態のことです。
幻想が想うのですから、さとりは幻想による幻想です。
ましてや、さとったなどという個人も存在していません。
個人というのも分離幻想であり、分離幻想自身が、分離がなくなることをさとりと呼んでいるわけです。
なんとなくわかりましたか?
さとりとは、
まさにいま分離幻想が消えて、
(氷が溶けて)
全体意識として存在
(水になる)
している状態です。
そのような状態にいた経験があるというのは、分離意識が持つ記憶に過ぎません。
この世にいるのは、さとった人と、さとっていない人ではなく、
まさにいま、自己の本質の状態(全体意識)にあるか否かの違いだけ
です。
「こんな人」と断定できる固定した者などいません。
すべては流れの中にあり、まさに「いま」どうなのかが問われているだけです。
以上、さとり講座でした。
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