2015年3月30日月曜日

150330のにっき。

引用です。

「向さんが坐禅をするとき、どんな境地になるの?」
20年も付き合っているのに、考えてみたらあんまり聞いたことがなかった。
そしたら向さん

「ただ在る。目の前の現象を判断することなく、たた純粋な意識として、あるがままに在るだけ。」

あれ?これって、僕がブログで言い続けてきたことそのものだ。
ずいぶん簡単に言うなァって思った(笑)

さて、昨日の講演中に改めて思ったことがあります。
それは、純粋意識が本当の僕たちなのですが、

それ以外は全部、全部が全部、思考の産物に過ぎない

って。
僕たちの人生も、あの人のことも、この人のことも、あのトラブルも、この失敗も、世界のことも、スピリチュアルな世界も、ワンネスだとか、宇宙だとか、

全部思考の産物。

そして思考があるから問題が生じ、あーでもない、こーでもないって、苦しみ悩むのです。
釈迦が「人生は苦しみだ」って言ったけれど、それすなわち「人生は思考の産物だ」ってことです。

その思考の最初の作品が「私」です。

確かに意識としての普遍的な存在はあるのですが、そこに分離した個としての「私」は思考が作り出した幻想です。
このことを繰り返し伝え続けてきました。

でも残念ながら、ブログや書籍の場合は言葉で伝えるしかなく、言葉は思考を介してやり取りされるため、「それそのもの」にはなりえません。
これは僕の言葉だけでなく、歴史的などんな経典も同じです。

そこで実践的に、ダイレクトに理解しようという試みが「禅」なのです。
向さんのように坐禅で無の境地に達するのは、よほどの天才でもない限り、長い時間と忍耐が求められます。
社会生活を送る僕たちには、あまり現実的な道とは言えません。

そこでまずは瞑想を実践することで、思考を離れた自己を感得することを勧めているのです。
その境地に馴染めば、坐禅による無の境地も、比較的速やかに達成できます。
(瞑想と坐禅の違いについては、また改めて解説します)

0 件のコメント:

コメントを投稿